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2011年12月27日

海外旅日記5 < Europe 2002>

Europe 2002

2002年11月5日
今回一緒に行くoさんはロック系のバンドで演奏する若い女性ドラマー。初めてのヨーロッパとても楽しみにしているが、ひとつ問題なのは、彼女が大の“犬恐怖症”ということ。
犬が至るところにいるヨーロッパ、大丈夫かな・・・?
ともかく私たちは、成田を午前11:10発の便に乗り、同じ日の夕方4時ごろシャルルドゴール空港に無事到着。タクシーでパリ市内のホテルへ行き、近くのピザレストランで夕食を食べ、旅の疲れのせいか時差ぼけか眠くてたまらず、早々に床につく。



11月6日
ホテルのレストランで朝食。
翌日から3日間Pに会いにスイスへ行き、10日から19日までパリで観光するというスケジュールだ。今までヨーロッパを列車で移動したことのない私は、明日ベルンに行く列車の時間や駅の構造を確かめに、リヨン駅に下見に行った。
パリには駅が5つあり、ベルン行きでも列車によって発着する駅が違うと聞いていたので、要注意だ。



11月7日
朝5:30起床。
リヨン駅に行き、私たちの乗る列車を案内板で探すが見つからない。
えっ?!もしかして違う駅??と焦りながら、駅で働く人々に切符を見せながら尋ねるが、それぞれ言うことが違い、私たちはその都度広い駅構内を走り回り、やっとなんとか列車に乗り込んだ時はもうクタクタ・・・列車の中のアナウンスは、英語、フランス語のほか数ヶ国語で、ああ、これがヨーロッパの列車なのね、と感心するも、肝心の内容はスピードが早すぎてチンプンカンプン。
列車が走り出して一時間もすると、窓の外は雪がぱらつき始めた。
今までフランス以外、ヨーロッパの国々を訪れたことのなかった私は、今から行くBernが
どういうところなのか、そして初めて会うPの家がどんなところなのか、全く想像がつかず、不安な気持ちで窓の外の雪景色を眺め、列車が駅に着くたびに、目を凝らして駅名を確かめ、Yさんから説明されていた風体のPの姿を探した。
5時間後、やっとBernに到着。
ずって神経が張り詰めていたのでやや疲れ気味だったが、帽子をかぶったPがホームでにこやかに迎えてくれて、ホッと一息。
Pの住居は駅から歩いて5分ほどの、外壁が一面カラフルで抽象的なペインティングが施されている大きな建物の中の一室だった。住人は大きな台所とリビングを共同で使い、それぞれ当番性で食事を作るのだそうだ。私たちはリビングでPの用意してくれたランチ(パンとチーズとジャム)を食べたあと、敷地内にある劇場、映画館、印刷所、レストランを案内され、最後に今日演奏する場所へ行った。
うあ~これって想像したのと全然違う・・・!
それはホームコンサートのようなものを思い描いていた私の考えを遥かに超える本格的な大きなホールだった。
最初はちょっと焦ったが、置いてある古いピアノを試奏しているうち、ピアノの音とホールの響き具合が心地よく、気がついたら2時間も弾いてしまった。
その後、サウンドチェックをし、今日の出演者、スタッフとレストランで拙い英語を喋りながら食事をしていると、疲れと緊張で意識が朦朧としてきて、これから本番で演奏する力はもうほとんど残っていないように思われた。
しかし、部屋に戻り、30分ほど仮眠すると少し体が軽くなり、本番は集中して演奏できた。
ホールにいた大勢の人々から拍手をもらい、ヨーロッパ初演奏は、なんとか無事終えることができた。
Pの友達の女性ドラマーMが客席に聴きに来ていて、「素晴らしい演奏だった!」と言って、ワインを奢ってくれた。彼女とPと私はあさって3人で演奏することになっているらしい。
とりあえず、ホールの隅にあるカウンターの前の高いスツールによじ登り、ワインを飲みながら、ほっと一息・・・長い一日が終わった!




11月9日
今日はMとP、3人で演奏する日だ。
今日の会場は一昨日とはうって変わって、小さな部屋のキッチンがステージ。
ピアノはない。(えっ?!!!)Pが持ってきた小さなシンセサイザーとアコーデオンの音が出るという小さなオルガンみたいな楽器を、ケーキの台の横に並べ、膝を突き合わせるようにしてPがベースを持って座り、その向こうにMがドラムセットをセット。
スピーカーはラジカセ・・・
なんでもここは完成したばかりの図書室で、今日はそのオープン記念パーティーということらしい。部屋は人々で溢れ、ステージの前までぎっしりだ。
この楽器でうまく演奏できるか不安だったのだが、演奏は思った以上に上手くいき、会場は熱い熱気に包まれた。
ハプニングが起こったのは、最後の演奏ももうすぐ終わろうかというとき。
観客の中で黒い山高帽をかぶっていた数人の人がなにやらしゃべったのを機に、会場の雰囲気が一変し、みんなが外に飛び出した。
気がついたら私たち演奏者とOさんだけが取り残された。言葉が聞き取れなかった私は状況がよくつかめなかったが、何かが起こったことだけは確かだ。
頭を抱えて黙り込むPとM。
「私は目の前に起こることすべて楽しむようにしている。ノープロブレム!」
というと、彼らの表情が少し和らいだ。
別れ際、彼らは来年一緒にツァーをやろうという。今日の演奏がとても楽しかったので、来年ももう一度やれるならと軽く考え、オーケーした。
それにしても外国には私の知らないことが沢山あるな~と、去年に続き実感。
世界は広い・・・


このあと11月10日にパリに戻り、19日までOさんとパリを観光。
犬恐怖症のoさんと歩くと、ヨーロッパには犬がいかに多いか改めて気づかされる。
犬好きの私もこの旅行の間は、犬を見るとドキッとするようになり、二人で犬のいない道を選んで歩くスリル満点の珍道中だった。

投稿者 yokomiura : 21:28

2011年12月18日

海外旅日記 4 < Europe 2002>

Europe 2002 Prologue

私が即興で表現したいのは、より自由な空間です。
そしてその空間を表現するためには、自分自身がより自由になっていくことが前提であると考えています。
それは具体的に言うと、自分を不自由にしている要素を見つけ出し、ひとつひとつ解きほぐしていくという作業です。
10年前、私が一番不自由に感じていたのは、音楽上で自分自身を縛っている既成概念でした。
しっかりと確立された枠組みの中で技を磨くことも大切ですが、そのころ私が求めていたのは、枠を超え、その向こうにある何かに出会うことでした。そのため私は積極的に異質なものを組み合わせ、そこに生じる異和、そしてそれを解決する過程の中に新しい可能性を見出そうとしていました。

パンクロックのボーカリストYさんもその頃一緒に演奏していたミュージシャンの一人で、2002年秋、私がパリに行くというのをきいて、スイスにいる彼女の友人Pを紹介してくれ、ベルンまで足をのばし会うことを強く薦めてくれました。
今回の旅はもともと、今まで何度か訪れていたパリへ、ヨーロッパへ行ったことのない友人の女性ドラマーOさんと一緒に観光するつもりで計画したものだったので、まさか、ベルンでヨーロッパ初演奏をすることになろうとは、まったく予想していませんでした。

投稿者 yokomiura : 23:29

2011年12月11日

海外旅日記 3 < NY 2001>

New York 2001

9月11日

今日はUpper Westのスタジオで Fさんたちが録音したテープのマスタリングをするので見学に行こうと思い、8:00起床。
準備をしていたら、9時過ぎに日本にいる夫から電話。
レコーディングの様子などをひとしきり話した後、「今、Newsで、ワールドトレードセンターにセスナ機が突っ込んだらしいよ」と教えてくれた。
そういえばCentury21というワールドトレードセンターの向かいにあるデパートはお薦めといわれていたし、午後からちょっと買い物がてら行ってみるかと思い、家を出る。
地下鉄の駅で電車を待つが、いっこうに来ない。
ああ、さっきのセスナ機の事故のせいで、多少、交通が乱れているのかも、と思い、地上に出て、バスに乗り、91丁目のスタジオへ向かう。
異変に気付いたのはバスに乗ってからまもなくのこと。
乗りこんでくる人々が、口々に興奮してなにやら叫んでいるのだ。
このときの私の英語力は、あいさつ程度しかできない極めて乏しいものだったが、”Oh my God”と叫ぶ人や、取り乱す人、そして、運転手がいきなりラジオを大きくかけ、車内の人がじっとその内容に耳をすます様子から、なにかとんでもないことが起こったらしいということは察知できた。
スタジオに着くと、Fさんたちも事故のことは知っていたが、まだ全容はわからないまま、地下のスタジオに入り、マスタリングを始める。
お昼過ぎ、マスタリングが終わり、地上に出た時はすでに交通は全面的にストップ。街の雰囲気は一変していた。
帰り道のルートが違うFさんたち達と別れ、91丁目から46丁目まで2時間以上かけて歩く。
セントラルパークを過ぎ、Midtownのあたりに来ると、道のいたる所にpolice。
物々しい雰囲気の中、なんとかアパートに着き、TVのスイッチをいれてみた。
そしてその時初めて、私は今朝この街で何が起こったのかをはっきりと知った。
旅客機が ビルに突き刺さっている。そしてもう一機が、もうひとつのビルに・・・
ビルが粉々に崩れ落ち、人々が逃げまどう映像が延々と流され、私は、TVの前に釘付けになり、夜中までただ呆然とテレビを眺めるばかりだった。
それは この街のすぐ近くで起こっていることとは信じられない光景だった。




9月12日

Fさんたから、列車が動いているようなので、予定通りボストンに行くという連絡。
きのうはあまり食べておらず、おなかがすいたので、Emie’s Breadというパン屋さんでパンを買い、朝食。
街をぶらっと歩く。
地下鉄の出口、美術館(ほとんど閉館)の入り口にはPoliceが立っている。
街では、人々が見知らぬもの同士にもかかわらず、車のボンネットに広げた新聞を一緒に覗き込んだり、話したりする光景をよく目にした。
2日前まで住んでいた14丁目のアパートまで行ってみると、そこから向こう(ダウンタウン)は バリケードで封鎖され、犬を連れたPoliceがそのあたりの人々全員(私も)チェックしていた。
デリで食料を買い、アパートへ戻る。
TVで、マンハッタンの交通情報が流されていたが、テロップはあまりに早く、英語にもこちらの地理にも疎い私にはチンプンカンプン。
わかったのは、今日一日、マンハッタンは完全に封鎖されているらしいということ。



9月13日

スタジオから電車が動き始めている、という連絡をもらい、
ブルックリンまでテープをもらいにいく。
スタジオの人とAttack(9.11)のことを話す。知り合いに犠牲者がいたとか・・・

「どんなテロも希望をくじくことはできない。」たどたどしい英語でこういうと、彼女はしっかりと肩を抱いてくれた。




9月14日

日本の知り合いから電話。
切羽詰った声で「水は?!食料は?!!!」
と聞かれ、だんだん不安になってきた。
そういえば、飛行機はあれ以来、飛んでいないらしいし、
もし私のFlightがキャンセルになった場合、英語もおぼつかない私が、空席待ちで席をゲットする自信はないし、このアパートも運航をキャンセルされた人たちの予約でこのあと満杯だそうで、私の延泊は無理ということだった。それどころか、今、NY中のホテルは帰れない人たちで満杯らしい。
え~私、もしかして、NYで野宿?!
それより帰れるの・・・?
不安は募るばかり・・・・・
ノースウエストへ電話してみるが、アンサーフォンの早口の英語についていけない。



9月14日

大使館に電話して、ノースウエストのofficeの住所を聞く。
こうなったら直接行って、リコンファームするしかない・・・
しかしグランドセントラル駅の近くだというそのオフィスは いくら探しても
見つけられなかった。駅の周辺は厳戒体制。
雨が降り始め、急に冷え込んできて、私は最寄りの店に飛び込む。
それは、H&Mというブティックだった。
広い店内は 何着もの洋服を手にかかえた女の人で一杯。
万国共通。女は買い物で憂さを晴らす?!
セーターを一枚買い、アパートへ戻る。
一休みし、BlueNoteでやるというチャールス・ロイドの死者を追悼するチャリティーコンサートへ出かける。
たくさんの客が列をつくって並んでいた。
入れ替え制だったので、時間が制限されていたのにもかかわらず、かれらは延々と演奏を続け、それは熱のこもったとても心に響く演奏だった。

ありがたいことに日本の友人が紹介してくれたNY在住の人が、飛行機のリコンファームをしてくれた。
17日、FlightはOKのようだ。
これが一番のネックだったので、心底ホッとした。




9月15日

今日は街にあるコインランドリーで洗濯。
ここには 整理係りがいて、使い方を懇切丁寧に教えてくれ、おまけに洗濯が終わると取り出して、きれいに畳んでくれる。
私は、早めに行き、自分で取り出した。

昼から現代美術館MOMAに行く。
展示作品はとても少なかったが、美術館の雰囲気は10年前と変わらず、素敵だった。
ただ、今回のAttackで両親を失った子供たちの募金を呼び掛ける用紙が置いてあって、今が非常事態だということを改めて思い起こさせられる。

そういえば今日も迷ったな~
迷っているうちに紀伊国屋に行きついた。
店の前で新聞を売っていた日本人のセールスマンと立ち話をしたところ、
空港は再開され、飛行機はもう飛び始めたということ。
帰りがけ、前を通ると先程の日本人に「お気をつけて!」と声をかけられた。
やさしさが心に染み入る。
今、この街はがんばっているな~という気がした。




9月16日

今日はNY最後の日だ。
今日こそ迷わないぞ!と心に決め、やっと目当ての81丁目、自然史博物館にやってきた。
ローズルーム(宇宙館)で見たプラネタリウムは素晴らしかった!!
なんといっても子供が多いのがいい。恐竜の絵を見ながら、母親が「これが鳥になったのよ」というと、「わ~お、こんな大きな鳥になったの?」母親「・・・」
子供の無邪気なおしゃべりを聞いていると、心が和む。

街の中を歩いていると、しかし、人々の表情にどこか影があるのをつくづく感じる。
街中、友達や家族を亡くしたり、行方不明になったり大変なのだ。
私はただ心の中で手を合わせ、祈るしかなかった。




9月17日

今日はいよいよ出発の日。
予約していた14:45, 発のノースウエスト17便に乗り込み、次の日の夕方、無事日本に戻ってくることができた。
初めてのレコーディング、そして9・11・・・と、この旅行は生涯忘れられないものになった。
そしてそれは、今まで実感したことのない世界を目のあたりにし、自分がなにものなのか、自分にできることは何なのか、を問い直すきっかけになるものだった。

投稿者 yokomiura : 19:08

2011年12月04日

海外旅日記2 < NY 2001>

NY 2001

8月28日

夕方 NY, JFK空港に到着。
イエローキャブで、Fさん夫妻のいるアパートへ向かう。
軽くお茶を飲んだあと、アパートのはす向かいにある“チェルシーマーケット”をのぞきに行く。個性的な店がいっぱい!
そのあと、イーストビレッジ、1丁目と2丁目都の間にあるDowntown Music GalleryにCDを見に行く。
Haveliというインド料理店で夕食。ベジタリアン・タリ(皿)とシュリンプカレー、マトンカレーを食べる。
最高だった!!!




8月29日

朝食を 近くのコリアンファーストフード店で済ませ、ビレッジを散歩。
いったん部屋に戻り、昼寝。シャワーを浴びて、おにぎりを食べ、ブルックリンにあるスタジオに、録音の打ち合わせに行く。
pianoを試奏させてもらう。( 素晴らしい響き!)
今回、せっかくの機会だから、NYのミュージャンとも共演してみたらと薦められていたので、soloのほか、duoも考えていると話すと、何人か候補を挙げてくれた。 
帰りにきのう行ったCDショップDowntown Music GalleryでCDを買い、そのあとBarに入り、ビールを飲んだ。道の向かいで、TVの撮影が行われていた。



8月30日

6時ごろ目が覚める。(時差ぼけ?)
バスでMidtownへ。
帰りに地下鉄の駅が見つからず、右往左往した。
やっと乗りこみ、14丁目で降りて出口に出たところ、方角がわからず、また右往左往・・・
Tさんに話したら、地下鉄から出たら、二つの大きなビル< ワールドトレードセンターのツインタワー>がある方向が南というふうに考えればいいよと教えてくれた。( 当時、このビルが12日後なくなってしまうとは、夢にも思っていなかった。)

12:20 Tさんと待ち合わせして、Bedfordにあるリハーサルスタジオに向かう。
駅前のメインストリートから道を曲がり、倉庫や工場が点在する人通りの少ない道を、延々と歩き、ようやくスタジオに着いた。(私一人で歩くのは、少し勇気がいるな・・・)
2時間Pianoを練習したあと、アパートに戻り、マーケットで買い物をし夕食。
近くのmeat marketという店には ビーフのかたまりが2000円くらいでゴロゴロころがっていた。アメリカはなんでも大きい!

夜はLive ハウス“Tonic”に行く。
ここは NYの即興シーンで今 最も注目されているところだ。(注:現在はもう無くなっている)。
ピアニストのマシューシップの演奏を目の前で見ることができたのに、時差ボケと疲れで、熟睡・・・!もったいなかった!



8月31日

Fさんに ビルの地下にある洗濯機の使い方を教えてもらう。
チェルシーマーケットでパンを買う。おいしい!!
Fさんたちが以前住んでいたところにあるlessonスタジオに、3人で行って練習。
音楽教室というが、庭のある美しい邸宅といった風情の建物で、ピアノもグランドピアノが2台入っている部屋で、一時間8ドル。

アパートに戻り、少し休息して ライブを見に行こうと思っていたのだが、
シャワーを浴びていたとき、足を滑らして、腰と頭を打ってしまい、大事を取って
一人留守番をすることになった。
(そのとき、ドーンとすごい音がしたらしく、居間にいたF夫妻は とっさに、わt浴槽大丈夫?!と思ったとか・・・ひどい!笑)



9月1日

きのうは 3時30分ごろ寝たわりに 早く起きた。10:00.
Lunchのソーメンがおいしかった。
リハーサルスタジオに行く途中、10日から一人で住むことになっているMidtown( hell’s kitchenのあたり)のアパートの下見に行く。
環境はそんなに危険ではなさそうだが、港のほうへ行く道はちょっと恐そうな雰囲気だから、気をつけよう。
シャワーをあびて “Tonic”へ。
今日は アートリンゼイが演奏していた。
会場に聴きにきていたTさんの知り合い、Oさんは 日本でも有名だったプロミュージシャンだが、現在は市民権をとり、タクシードライバーをやりながら、saxを吹き、ハーレムに暮らしているということだった。



9月2日

地下のランドリーで洗濯。
Peter Lugerというティーボーンステーキでは全米一美味しいという店で Lunch.
味はもちろん、大きさもSuper!!!
デザートに頼んでみたパフェは 6人で食べてちょうどいいくらいデカカッタ!

夜は ニッティングファクトリー( 注:これも今はなくなっている)に Henry Threadgillという人のグループを聴きに行く。
帰りに ピーカンナッツのパイを買って食べる。
めちゃくちゃ甘いけど、おいしかった!



9月3日
ソーホーのギャラリーを散策。

夜は Fさんたちは仕事があるというので 一人で“Tonic"へ出かける。
Andrea Neuwmanの演奏に心ひかれ、終わった後、思い切って話しかけ、自分の感想を伝えた。拙い英語ではあったが、彼女も気さくに応じてくれ、ちょっとこの街にとけ込んだ実感を持てた。
が、帰り道はまた迷い、12:00すぎ、地下鉄に乗り、ようやくアパートにたどり着いた。(ちょっと恐かった)




9月5日

録音は 6日か、9日にやることになった。
共演者は Matt Wilsonに決まる。



9月6日

ブルックリンのスタジオから電話。
今日の夜、ちょうど2時間ほど時間が空いているので、Soloの分だけやれないかということで、急きょレコーディングすることになった。
広々としたスタジオに置かれたグランドピアノは、日本のものとは異なる乾いた響きで、いつもとは違う音が聞こえてきた。
それはとても新鮮な感覚で、あっという間に2時間が過ぎた。
帰りにピザを買ってきて、Fさんたちとビールで乾杯。




9月7日

マンハッタンの北部、クロイスター美術館に行く。
190STにあるこの美術館、ハーレムを通り越してはるか北部にいくので治安が気になったが、32丁目からバスで一本で行けるという。
またしても迷いながらなんとかバス停を見つけ、2時間近くかかったが、無事到着。
Midtownからセントラルパークの東を通り、ハーレムを横切って、西に移動するこのバス、地域が変わるにつれ、街の様子、乗りこんでくる人々の雰囲気が変わるのが、興味深かった。
美術館は 南フランスのクサにあった修道院にあった回廊を一部復元したもので、まわりとは隔絶された静かで雰囲気に、心が癒された。




9月9日

今日は duo録音の日。
Mattとは、この日初対面。
ブースに入ったMattの音をヘッドホンの片耳で聴きながら、ピアノを弾いた。
全然打ち合わせはしなかったのだが、Mattの演奏は素晴らしく、アンサンブルは最高に楽しかった。(1sr CD ”Dialogue”)



9月10日

録音も無事終わり、今、心底リラックスしている。
実を言うと、NYに来て以来、初めての録音のことが頭から離れず、観光をしていてもいつもどこか緊張していて100%楽しむことができなかったのだ。

さあ、これから、一週間は本当のHolidayだ。心ゆくまで楽しめる!!!

あさってからボストンに移動するFさん夫妻に別れを告げ、46丁目の新しいアパートへ引っ越しをする。
新しいアパートはMidtownの西にある可愛らしい小さな部屋だ。



投稿者 yokomiura : 23:06