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2011年12月11日

海外旅日記 3 < NY 2001>

New York 2001

9月11日

今日はUpper Westのスタジオで Fさんたちが録音したテープのマスタリングをするので見学に行こうと思い、8:00起床。
準備をしていたら、9時過ぎに日本にいる夫から電話。
レコーディングの様子などをひとしきり話した後、「今、Newsで、ワールドトレードセンターにセスナ機が突っ込んだらしいよ」と教えてくれた。
そういえばCentury21というワールドトレードセンターの向かいにあるデパートはお薦めといわれていたし、午後からちょっと買い物がてら行ってみるかと思い、家を出る。
地下鉄の駅で電車を待つが、いっこうに来ない。
ああ、さっきのセスナ機の事故のせいで、多少、交通が乱れているのかも、と思い、地上に出て、バスに乗り、91丁目のスタジオへ向かう。
異変に気付いたのはバスに乗ってからまもなくのこと。
乗りこんでくる人々が、口々に興奮してなにやら叫んでいるのだ。
このときの私の英語力は、あいさつ程度しかできない極めて乏しいものだったが、”Oh my God”と叫ぶ人や、取り乱す人、そして、運転手がいきなりラジオを大きくかけ、車内の人がじっとその内容に耳をすます様子から、なにかとんでもないことが起こったらしいということは察知できた。
スタジオに着くと、Fさんたちも事故のことは知っていたが、まだ全容はわからないまま、地下のスタジオに入り、マスタリングを始める。
お昼過ぎ、マスタリングが終わり、地上に出た時はすでに交通は全面的にストップ。街の雰囲気は一変していた。
帰り道のルートが違うFさんたち達と別れ、91丁目から46丁目まで2時間以上かけて歩く。
セントラルパークを過ぎ、Midtownのあたりに来ると、道のいたる所にpolice。
物々しい雰囲気の中、なんとかアパートに着き、TVのスイッチをいれてみた。
そしてその時初めて、私は今朝この街で何が起こったのかをはっきりと知った。
旅客機が ビルに突き刺さっている。そしてもう一機が、もうひとつのビルに・・・
ビルが粉々に崩れ落ち、人々が逃げまどう映像が延々と流され、私は、TVの前に釘付けになり、夜中までただ呆然とテレビを眺めるばかりだった。
それは この街のすぐ近くで起こっていることとは信じられない光景だった。




9月12日

Fさんたから、列車が動いているようなので、予定通りボストンに行くという連絡。
きのうはあまり食べておらず、おなかがすいたので、Emie’s Breadというパン屋さんでパンを買い、朝食。
街をぶらっと歩く。
地下鉄の出口、美術館(ほとんど閉館)の入り口にはPoliceが立っている。
街では、人々が見知らぬもの同士にもかかわらず、車のボンネットに広げた新聞を一緒に覗き込んだり、話したりする光景をよく目にした。
2日前まで住んでいた14丁目のアパートまで行ってみると、そこから向こう(ダウンタウン)は バリケードで封鎖され、犬を連れたPoliceがそのあたりの人々全員(私も)チェックしていた。
デリで食料を買い、アパートへ戻る。
TVで、マンハッタンの交通情報が流されていたが、テロップはあまりに早く、英語にもこちらの地理にも疎い私にはチンプンカンプン。
わかったのは、今日一日、マンハッタンは完全に封鎖されているらしいということ。



9月13日

スタジオから電車が動き始めている、という連絡をもらい、
ブルックリンまでテープをもらいにいく。
スタジオの人とAttack(9.11)のことを話す。知り合いに犠牲者がいたとか・・・

「どんなテロも希望をくじくことはできない。」たどたどしい英語でこういうと、彼女はしっかりと肩を抱いてくれた。




9月14日

日本の知り合いから電話。
切羽詰った声で「水は?!食料は?!!!」
と聞かれ、だんだん不安になってきた。
そういえば、飛行機はあれ以来、飛んでいないらしいし、
もし私のFlightがキャンセルになった場合、英語もおぼつかない私が、空席待ちで席をゲットする自信はないし、このアパートも運航をキャンセルされた人たちの予約でこのあと満杯だそうで、私の延泊は無理ということだった。それどころか、今、NY中のホテルは帰れない人たちで満杯らしい。
え~私、もしかして、NYで野宿?!
それより帰れるの・・・?
不安は募るばかり・・・・・
ノースウエストへ電話してみるが、アンサーフォンの早口の英語についていけない。



9月14日

大使館に電話して、ノースウエストのofficeの住所を聞く。
こうなったら直接行って、リコンファームするしかない・・・
しかしグランドセントラル駅の近くだというそのオフィスは いくら探しても
見つけられなかった。駅の周辺は厳戒体制。
雨が降り始め、急に冷え込んできて、私は最寄りの店に飛び込む。
それは、H&Mというブティックだった。
広い店内は 何着もの洋服を手にかかえた女の人で一杯。
万国共通。女は買い物で憂さを晴らす?!
セーターを一枚買い、アパートへ戻る。
一休みし、BlueNoteでやるというチャールス・ロイドの死者を追悼するチャリティーコンサートへ出かける。
たくさんの客が列をつくって並んでいた。
入れ替え制だったので、時間が制限されていたのにもかかわらず、かれらは延々と演奏を続け、それは熱のこもったとても心に響く演奏だった。

ありがたいことに日本の友人が紹介してくれたNY在住の人が、飛行機のリコンファームをしてくれた。
17日、FlightはOKのようだ。
これが一番のネックだったので、心底ホッとした。




9月15日

今日は街にあるコインランドリーで洗濯。
ここには 整理係りがいて、使い方を懇切丁寧に教えてくれ、おまけに洗濯が終わると取り出して、きれいに畳んでくれる。
私は、早めに行き、自分で取り出した。

昼から現代美術館MOMAに行く。
展示作品はとても少なかったが、美術館の雰囲気は10年前と変わらず、素敵だった。
ただ、今回のAttackで両親を失った子供たちの募金を呼び掛ける用紙が置いてあって、今が非常事態だということを改めて思い起こさせられる。

そういえば今日も迷ったな~
迷っているうちに紀伊国屋に行きついた。
店の前で新聞を売っていた日本人のセールスマンと立ち話をしたところ、
空港は再開され、飛行機はもう飛び始めたということ。
帰りがけ、前を通ると先程の日本人に「お気をつけて!」と声をかけられた。
やさしさが心に染み入る。
今、この街はがんばっているな~という気がした。




9月16日

今日はNY最後の日だ。
今日こそ迷わないぞ!と心に決め、やっと目当ての81丁目、自然史博物館にやってきた。
ローズルーム(宇宙館)で見たプラネタリウムは素晴らしかった!!
なんといっても子供が多いのがいい。恐竜の絵を見ながら、母親が「これが鳥になったのよ」というと、「わ~お、こんな大きな鳥になったの?」母親「・・・」
子供の無邪気なおしゃべりを聞いていると、心が和む。

街の中を歩いていると、しかし、人々の表情にどこか影があるのをつくづく感じる。
街中、友達や家族を亡くしたり、行方不明になったり大変なのだ。
私はただ心の中で手を合わせ、祈るしかなかった。




9月17日

今日はいよいよ出発の日。
予約していた14:45, 発のノースウエスト17便に乗り込み、次の日の夕方、無事日本に戻ってくることができた。
初めてのレコーディング、そして9・11・・・と、この旅行は生涯忘れられないものになった。
そしてそれは、今まで実感したことのない世界を目のあたりにし、自分がなにものなのか、自分にできることは何なのか、を問い直すきっかけになるものだった。

投稿者 yokomiura : 2011年12月11日 19:08